田中一村展 - 奄美の光 魂の絵画 - 東京都美術館

《枇檳榔(びろうじゅ)の森》1973年

2024.09.19~12.01まで東京上野は都立美術館にて開催中の「田中一村」展へ行ってまいりました。英題は「Tanaka Isson : Light and Soul」、全てに英語のキャプション付きでしたので外国からの観光客の方々にも楽しんでいただけると思います。神童と言われ、彫刻家の父がプロデュースしていた子供時代の作品から奄美大島での晩年の作品、スケッチブック、一村が撮影した写真(姉を写したポートレートが「映え」でした)全画業を辿れる満足いく内容の展覧会です。

章立ては以下の通りです

第1章/若き南画家の活躍 東京時代
昭和初期の新展開 20代の米邨(べいそん)

第2章/千葉時代
「一村」誕生 心機一転の戦後

第3章/己の道 奄美へ

田中一村(1908-1977)は、栃木県に生まれ、幼い頃から南画で頭角を表わし「神童」と呼ばれます。父、稲邨は木彫家でそんな一村を「米邨(べいそん)」と名付け、彼をプロデュース。幼少時代の作品は、墨で力強く時に荒々しく花鳥風月を描いた作品が多く「これが7歳の作品・・確かに神童か・・」と驚かされるような作品が多かったです。確かに南画的には荒削りですが光るものがあり親としてはさぞ将来が楽しみな息子であったろうと想像しました。

そんな神童はストレートで東京美術学校(現・東京藝術大学)同期には東山魁夷も名を連ねている日本画科に入学します。(志願者は50余名、合格者20名あまりと書いてあったので、現在とは倍率がかなり違います)ところが、たった2ヶ月で「家の都合で」退学してしまいます。この退学が良きにつけ、悪しきにつけ、運命の分かれ道だったのではないか・・?と筆者は想像しました。退学し、引き続き父のプロデュースで「米邨」として南画の頒布会も開かれ、財界などに作品が売れていき一家の生計を支えていたそうです。

ところが、病気だった父が逝去します。23歳になった一村は、「ザ・南画」ではなく新境地の作風を支援者に発表しますが、否定されてしまいます。そこで一村は、南画や支援者との訣別を決意し、親戚を頼り千葉へ転居します。ここで、米邨は一村と名乗り始めます。
米邨は南画家としての作家名、それを捨てて新たな作家人生に挑み出したということでもあります。

《奄美の海に蘇鉄とアダン》1961年


ここでもし「一村」として簡単に成功していたら今知られているような一連の奄美を描いた一村の作品はなかったかもしれません。一村は50歳で奄美にたどり着くまで、公募展にもたった1回しか入選せず、経済的にも大変な苦労をし、姉に頼った生活をしていたそうです。50歳で奄美に辿り着き、69歳で亡くなるまでその約20年の間に傑作が次々誕生、今よく知られる彼の南国を描いた作品は晩年のものであったと分かりました。遅咲きの作家でした。そんな一村が尊敬していたのは「ピカソ」だったそうです。初期には富岡鉄斎、晩年はルソーやゴーギャンも意識していたのかなと思いましたが、所持品の中にはルソーの画集はなかったと聞きました。もう少し長生きできていればもっと傑作が見れたかもしれません。

《アダンの海辺》1969年


日本画の画材からは逸脱していないので、日本画のジャンル内にとどまっているとは思いますが、当時としてはかなり攻めた日本画家だったのではないかと思います。当時の画壇の評価はわかりませんが、伝え聞くところによると90年代?には百貨店のギャラリーで地味に販売されていたことがあると聞いたことがあります。公募展に入選した「白い花」は確かに美しい日本画的な作品でしたが、生前に高い評価はされなかった奄美の作品群こそが彼独自の境地だったと誰もが納得するのではないでしょうか。死の1年前に描かれた、日本画としては攻めている画風の「海老と熱帯魚」などその後の展開が気になる作品があり、その先が見たいと感じさせました。12月1日までです。

公式サイトが大変充実しています。サイト内の「もっと知りたい田中一村」には飛行機で奄美に渡った中村一般さんの漫画と、フェリーで鹿児島から渡ったナカムラクニオさんの写真による紀行文が載っていて、なんと美しい光に溢れた島だと思いました。一度は奄美へ行ってみたいと思いました。展覧会、大変おすすめです。

※10月25日に7作品ほど展示替えがありますので、ご注意ください。

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